富士川の戦い(ふじかわのたたかい)とは平安時代後期の治承4年10月20日(1180年11月9日)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦である。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。
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石橋山の戦いで敗れた源頼朝は安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して大軍に膨れ上がり鎌倉に入る。頼朝は駿河国で、都から派遣された平維盛率いる追討軍と戦い勝利し、関東での割拠を確立させた。
関東は長く河内源氏の地盤であったが、平治の乱で源義朝が敗れたことにより源氏は没落し、東国武士たちは平氏政権に従うようになった。
治承4年8月17日(1180年9月8日)、伊豆国に流されていた義朝の三男・頼朝は以仁王の令旨を奉じて、舅の北条時政や土肥実平、佐々木盛綱らと挙兵し、伊豆目代山木兼隆の館を襲撃して殺害した。だが、続く8月23日(9月14日)の石橋山の戦いで頼朝は大庭景親、伊東祐親率いる平家方に惨敗してしまう。
頼朝は山中に逃げ込んで平家方の追跡をかわし、土肥実平の手引きで船を仕立てて真鶴岬(神奈川県真鶴町)から安房国へ向かった。
頼朝に味方していた三浦一族も平家方の畠山重忠らに本拠衣笠城を攻められ、城を捨てて海上へ逃れた。
頼朝の再挙
8月29日(9月20日)、頼朝は安房国平北郡猟島に到着した。同地で先発していた三浦一族や北条時政らと合流。地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求めた。千葉常胤は直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが、房総半島に大きな勢力を有する上総広常の向背には不安があった。9月13日(10月3日)、頼朝は300騎を率いて安房国を出立。17日(10月7日)に頼朝は下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。19日(10月9日)に武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。『吾妻鏡』によると広常は、寡兵の頼朝にこれほどの大軍を率いて参じればが、さぞ喜ぶだろうと考えていたが、予想に反して頼朝は遅参を怒り、目通りを許さなかった。広常は頼朝に器量なくば、これを討ってその首を平家に献じようと密かに考えていたが、頼朝の威に感服して心からこれに従うことになったという。
29日(19日)の時点で、諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっていた。
10月2日(10月22日)、頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、何らの抵抗を受けることなく10月6日(10月26日)に源氏累代の本拠地鎌倉[1]に入った。
追討軍の編成
頼朝挙兵の報は9月1日(9月21日)に大庭景親より福原へもたらされた。5日(25日)に平清盛は追討軍を関東へ派遣することを決定する。
追討軍の編成は遅々として進まず、平維盛、忠度、知度らによる追討軍が福原を出立したのは22日(10月12日)であった。京に入っても総大将の維盛と次将(参謀役)の藤原忠清が吉日を選ぶ選ばぬで悶着があり、京を発したのは29日(10月19日)になってしまった。
平家方が時間を空費している間に頼朝は関東で勢力を回復し、甲斐国では甲斐源氏が、信濃国では源義仲が挙兵していた。
追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めて7万騎(『平家物語』)の大軍となるが、寄せ集めであり、折からの西国の大飢饉で兵糧の調達に苦しんだこともあって士気を著しく低下させていた。
10月13日(11月2日)、追討軍は駿河国へ入った。16日(5日)に頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発する。『吾妻鏡』によると頼朝の軍勢は20万騎にのぼったという。
甲斐源氏の挙兵
治承4年8月頃には武田信義、安田義定、一条忠頼ら甲斐源氏が挙兵して甲斐国を制圧(『山槐記』)。8月25日には石橋山で頼朝を破った大庭景親の弟俣野景久と駿河国目代が安田義定らと波太志山にて交戦した(『吾妻鏡』)。駿河国へ侵攻し、10月14日(11月3日)に富士山の麓で目代橘遠茂の3000余騎を撃破。17日(11月6日)に武田信義は維盛に挑戦状を送りつけている(『玉葉』・『吉記』)。
2万余騎の甲斐源氏の軍勢は10月18日(11月7日)に黄瀬川沿いに陣する頼朝の軍と合流した。頼朝は24日(11月13日)をもって矢合わせとすると決める。
鎌倉幕府による後年の編纂書である『吾妻鏡』では甲斐源氏に対して頼朝は北条時政、加藤景廉らを派遣して、その指示のもとに行動していたように記されているが、これは後世の鎌倉幕府による創作であり、甲斐源氏は頼朝とは別に以仁王の令旨を受けて挙兵しており、この時期に頼朝の指揮下に入る理由がなく、そもそも維盛の追討軍の目的は頼朝ではなく、甲斐源氏であったという見方もある[2]。
水鳥の羽音
10月18日(11月7日)に大庭景親は1000騎を率いて駿河の維盛の軍に合流しようとするが頼朝の大軍が足柄峠を塞いでおり叶わずに逃げ去り、後に頼朝に降参するが許されず斬られている。(なお、『延慶本平家物語』では、景親は相模国にいたが駿河に向かおうとしたところ先に駿河を武田信義に占拠されて平家本軍に合流できないところに、東からは源頼朝勢が押し寄せてきたため逃亡することになったとしている。)
10月19日(11月8日)、伊豆から船を出して維盛と合流しようと図った伊東祐親・祐清父子が捕らえられた。
20日(11月9日)、頼朝の軍は富士川の東岸に進む。平家方はその西岸に布陣した。兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によるとこの時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。
『平家物語』には大将の維盛が武蔵国の住人で戦巧者の斎藤実盛に合戦について質問したところ、実盛は己ほどの弓の使い手なぞ東国には数え切れぬほどおり、坂東の武者は騎馬に優れ、親が死んでも子が死んでも進む武勇を語り、坂東武者10人に京武者200人がかかっても敵わないだろうと答えて、すっかり士気を萎えさせたという話がある。なお、斎藤実盛がこの合戦に従軍していた史実はなく、この話は東国武士の優越さを誇張するための虚構と考えられる[3]。
その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とある。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。『平家物語』や『源平盛衰記』はその狼狽振りを詳しく描いており、兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたとの記載がある。事実はどのようなものであるかは不明ではあるが、平家軍に多少の混乱があったものと推察される。
収拾のつかない混乱ぶりに忠清は撤退を進言。総大将の維盛もこれに同意して、平家方は総崩れになって逃げ出した。遠江国まで退却するが、軍勢を立て直すことができず、全軍ちりじりになり、維盛が京へ逃げ戻った時には僅か10騎になっていた。
富士川の戦いは平家武者の臆病ぶりを示す合戦として有名だが、軍記物語の『平家物語』や『源平盛衰記』はもちろん、『吾妻鏡』の記述は誇張ないし、虚構で、水鳥の羽音を敵襲と誤認したのではなく、水鳥の羽音で敵の夜襲を察知し、迎撃の準備ができていなかったので撤退したという見方もある。また、戦力差を考慮して水鳥の羽音とは関係なしに撤退を決めていたとの見方もある。
また、合戦に勝利した主体そのものが甲斐源氏であり、『吾妻鏡』の記述は治承・寿永の乱で頼朝が常に源氏の中心であったかに装う後世の創作で、実際には頼朝は後方にあって副次的な役割しか果たしていないという説もある[4]。
この水鳥の羽音に関する各本の異同を一覧にすると以下のようになる。
『源平盛衰記』…日付なし、平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。
『平家物語』…10月23日、平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。
『山槐記』…10月19日、平家軍は水鳥の羽音に驚き、自ら陣営に火を放って撤退した。
『吾妻鏡』…10月20日、平家の諸将は包囲されるのを恐れていたところに水鳥の羽音がしたので撤退した。
『玉葉』…10月18日、羽音の記述はない。開戦前に平家側数百騎の兵が源氏に逃亡したため平家は撤退をした。
なお、『玉葉』のみ源氏の総指揮官を武田信義としている。
黄瀬川の対面
黄瀬川八幡神社にある対面石合戦の翌21日(11月10日)、黄瀬川駅(静岡県駿東郡清水町)で若い武者が頼朝との対面を願い出た。『吾妻鏡』によると「弱冠一人」、『源平盛衰記』によると20余騎を率いていた。頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から駆けつけた弟の九郎義経であった。
土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠は怪しんで取り次ごうとしなかったが、騒ぎを聞きつけた頼朝は「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう」と言い対面がかなった。
頼朝は後三年の役で源義家が苦戦していた時、その弟の義光が官職を投げうって駆けつけた故事を引いて、義経の手を取って涙を流した。
後に義経はもう一人の兄の範頼とともに源義仲討滅、平家追討の指揮をとり、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いで勝利し、そして壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすことになる。
戦後
頼朝はこのまま平家方を追撃して上洛しようと望むが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄がこれに反対して東国を固めるよう主張。頼朝は東国武士たちの意志に逆らうことができず、また武田信義が駿河、安田義定が遠江を制圧している事実を追認して、自らは鎌倉へ帰還した。
その後、頼朝は佐竹秀義、志田義広、足利忠綱ら反対勢力を討って東国の制圧に専念することになる。